2008年11月5日水曜日

第二夜

 こんな夢を見た。
 和尚《おしょう》の室を退《さ》がって、廊下《ろうか》伝《づた》いに自分の部屋へ帰ると行灯《あんどう》がぼんやり点《とも》っている。片膝《かたひざ》を座蒲団《ざぶとん》の上に突いて、灯心を掻《か》き立てたとき、花のような丁子《ちょうじ》がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。
 襖《ふすま》の画《え》は蕪村《ぶそん》の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近《おちこち》とかいて、寒《さ》むそうな漁夫が笠《かさ》を傾《かたぶ》けて土手の上を通る。床《とこ》には海中文殊《かいちゅうもんじゅ》の軸《じく》が懸《かか》っている。焚《た》き残した線香が暗い方でいまだに臭《にお》っている。広い寺だから森閑《しんかん》として、人気《ひとけ》がない。黒い天井《てんじょう》に差す丸行灯《まるあんどう》の丸い影が、仰向《あおむ》く途端《とたん》に生きてるように見えた。
 立膝《たてひざ》をしたまま、左の手で座蒲団《ざぶとん》を捲《めく》って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直《なお》して、その上にどっかり坐《すわ》った。
 お前は侍《さむらい》である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚《おしょう》が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑《くず》じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜《くや》しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向《むこう》をむいた。怪《け》しからん。
 隣の広間の床に据《す》えてある置時計が次の刻《とき》を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室《にゅうしつ》する。そうして和尚の首と悟りと引替《ひきかえ》にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。
 もし悟れなければ自刃《じじん》する。侍が辱《はずか》しめられて、生きている訳には行かない。綺麗《きれい》に死んでしまう。
 こう考えた時、自分の手はまた思わず布団《ふとん》の下へ這入《はい》った。そうして朱鞘《しゅざや》の短刀を引《ひ》き摺《ず》り出した。ぐっと束《つか》を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃《は》が一度に暗い部屋で光った。凄《すご》いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切先《きっさき》へ集まって、殺気《さっき》を一点に籠《こ》めている。自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮《ちぢ》められて、九寸《くすん》五分《ごぶ》の先へ来てやむをえず尖《とが》ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体《からだ》の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。唇《くちびる》が顫《ふる》えた。
 短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽《ぜんが》を組んだ。――趙州《じょうしゅう》曰く無《む》と。無とは何だ。糞坊主《くそぼうず》めとはがみをした。
 奥歯を強く咬《か》み締《し》めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。
 懸物《かけもの》が見える。行灯が見える。畳《たたみ》が見える。和尚の薬缶頭《やかんあたま》がありありと見える。鰐口《わにぐち》を開《あ》いて嘲笑《あざわら》った声まで聞える。怪《け》しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の香《におい》がした。何だ線香のくせに。
 自分はいきなり拳骨《げんこつ》を固めて自分の頭をいやと云うほど擲《なぐ》った。そうして奥歯をぎりぎりと噛《か》んだ。両腋《りょうわき》から汗が出る。背中が棒のようになった。膝《ひざ》の接目《つぎめ》が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無《む》はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜《くや》しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思《おもい》に身を巨巌《おおいわ》の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕《くだ》いてしまいたくなる。
 それでも我慢してじっと坐っていた。堪《た》えがたいほど切ないものを胸に盛《い》れて忍んでいた。その切ないものが身体《からだ》中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦《あせ》るけれども、どこも一面に塞《ふさ》がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
 そのうちに頭が変になった。行灯《あんどう》も蕪村《ぶそん》の画《え》も、畳も、違棚《ちがいだな》も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無《む》はちっとも現前《げんぜん》しない。ただ好加減《いいかげん》に坐っていたようである。ところへ忽然《こつぜん》隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
 はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。

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