2008年11月5日水曜日

第七夜

 何でも大きな船に乗っている。
 この船が毎日毎夜すこしの絶間《たえま》なく黒い煙《けぶり》を吐いて浪《なみ》を切って進んで行く。凄《すさま》じい音である。けれどもどこへ行くんだか分らない。ただ波の底から焼火箸《やけひばし》のような太陽が出る。それが高い帆柱の真上まで来てしばらく挂《かか》っているかと思うと、いつの間にか大きな船を追い越して、先へ行ってしまう。そうして、しまいには焼火箸《やけひばし》のようにじゅっといってまた波の底に沈んで行く。そのたんびに蒼《あお》い波が遠くの向うで、蘇枋《すおう》の色に沸《わ》き返る。すると船は凄《すさま》じい音を立ててその跡《あと》を追《おっ》かけて行く。けれども決して追つかない。
 ある時自分は、船の男を捕《つら》まえて聞いて見た。
「この船は西へ行くんですか」
 船の男は怪訝《けげん》な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
「なぜ」と問い返した。
「落ちて行く日を追かけるようだから」
 船の男はからからと笑った。そうして向うの方へ行ってしまった。
「西へ行く日の、果《はて》は東か。それは本真《ほんま》か。東《ひがし》出る日の、御里《おさと》は西か。それも本真か。身は波の上。※[#「(楫-木)+戈」、第3水準1-84-66]枕《かじまくら》。流せ流せ」と囃《はや》している。舳《へさき》へ行って見たら、水夫が大勢寄って、太い帆綱《ほづな》を手繰《たぐ》っていた。
 自分は大変心細くなった。いつ陸《おか》へ上がれる事か分らない。そうしてどこへ行くのだか知れない。ただ黒い煙《けぶり》を吐いて波を切って行く事だけはたしかである。その波はすこぶる広いものであった。際限《さいげん》もなく蒼《あお》く見える。時には紫《むらさき》にもなった。ただ船の動く周囲《まわり》だけはいつでも真白に泡《あわ》を吹いていた。自分は大変心細かった。こんな船にいるよりいっそ身を投げて死んでしまおうかと思った。
 乗合《のりあい》はたくさんいた。たいていは異人のようであった。しかしいろいろな顔をしていた。空が曇って船が揺れた時、一人の女が欄《てすり》に倚《よ》りかかって、しきりに泣いていた。眼を拭く手巾《ハンケチ》の色が白く見えた。しかし身体《からだ》には更紗《さらさ》のような洋服を着ていた。この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
 ある晩|甲板《かんぱん》の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学などを知る必要がない。黙っていた。するとその異人が金牛宮《きんぎゅうきゅう》の頂《いただき》にある七星《しちせい》の話をして聞かせた。そうして星も海もみんな神の作ったものだと云った。最後に自分に神を信仰するかと尋ねた。自分は空を見て黙っていた。
 或時サローンに這入《はい》ったら派手《はで》な衣裳《いしょう》を着た若い女が向うむきになって、洋琴《ピアノ》を弾《ひ》いていた。その傍《そば》に背の高い立派な男が立って、唱歌を唄《うた》っている。その口が大変大きく見えた。けれども二人は二人以外の事にはまるで頓着《とんじゃく》していない様子であった。船に乗っている事さえ忘れているようであった。
 自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板《かんぱん》を離れて、船と縁が切れたその刹那《せつな》に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は厭《いや》でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし捕《つか》まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮《ちぢ》めても近づいて来る。水の色は黒かった。
 そのうち船は例の通り黒い煙《けぶり》を吐いて、通り過ぎてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱《いだ》いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。

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