2008年11月5日水曜日

第八夜

 床屋の敷居を跨《また》いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
 真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開《あ》いて、残る二方に鏡が懸《かか》っている。鏡の数を勘定《かんじょう》したら六つあった。
 自分はその一つの前へ来て腰をおろした。すると御尻《おしり》がぶくりと云った。よほど坐り心地《ごこち》が好くできた椅子である。鏡には自分の顔が立派に映った。顔の後《うしろ》には窓が見えた。それから帳場格子《ちょうばごうし》が斜《はす》に見えた。格子の中には人がいなかった。窓の外を通る往来《おうらい》の人の腰から上がよく見えた。
 庄太郎が女を連れて通る。庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被《かぶ》っている。女もいつの間に拵《こし》らえたものやら。ちょっと解らない。双方とも得意のようであった。よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
 豆腐屋《とうふや》が喇叭《らっぱ》を吹いて通った。喇叭を口へあてがっているんで、頬《ほっ》ぺたが蜂《はち》に螫《さ》されたように膨《ふく》れていた。膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。生涯《しょうがい》蜂に螫されているように思う。
 芸者が出た。まだ御化粧《おつくり》をしていない。島田の根が緩《ゆる》んで、何だか頭に締《しま》りがない。顔も寝ぼけている。色沢《いろつや》が気の毒なほど悪い。それで御辞儀《おじぎ》をして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。
 すると白い着物を着た大きな男が、自分の後《うし》ろへ来て、鋏《はさみ》と櫛《くし》を持って自分の頭を眺め出した。自分は薄い髭《ひげ》を捩《ひね》って、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。白い男は、何《な》にも云わずに、手に持った琥珀色《こはくいろ》の櫛《くし》で軽く自分の頭を叩《たた》いた。
「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」と自分は白い男に聞いた。白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。
 鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》っていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。すると白い男が、こう云った。
「旦那《だんな》は表の金魚売を御覧なすったか」
 自分は見ないと云った。白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。すると突然大きな声で危険《あぶねえ》と云ったものがある。はっと眼を開けると、白い男の袖《そで》の下に自転車の輪が見えた。人力の梶棒《かじぼう》が見えた。と思うと、白い男が両手で自分の頭を押えてうんと横へ向けた。自転車と人力車はまるで見えなくなった。鋏の音がちゃきちゃきする。
 やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈《か》り始めた。毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。粟餅《あわもち》や、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。小さい杵《きね》をわざと臼《うす》へあてて、拍子《ひょうし》を取って餅を搗《つ》いている。粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。ただ餅を搗く音だけする。
 自分はあるたけの視力で鏡の角《かど》を覗《のぞ》き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。色の浅黒い眉毛《まみえ》の濃い大柄《おおがら》な女で、髪を銀杏返《いちょうがえ》しに結《ゆ》って、黒繻子《くろじゅす》の半襟《はんえり》のかかった素袷《すあわせ》で、立膝《たてひざ》のまま、札《さつ》の勘定《かんじょう》をしている。札は十円札らしい。女は長い睫《まつげ》を伏せて薄い唇《くちびる》を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。膝《ひざ》の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
 自分は茫然《ぼうぜん》としてこの女の顔と十円札を見つめていた。すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」と云った。ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子《ちょうばごうし》の方をふり返って見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
 代《だい》を払って表へ出ると、門口《かどぐち》の左側に、小判《こばん》なりの桶《おけ》が五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、斑入《ふいり》の金魚や、痩《や》せた金魚や、肥《ふと》った金魚がたくさん入れてあった。そうして金魚売がその後《うしろ》にいた。金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖《ほおづえ》を突いて、じっとしている。騒がしい往来《おうらい》の活動にはほとんど心を留めていない。自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。

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