2008年11月5日水曜日

第一夜

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐《すわ》っていると、仰向《あおむき》に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭《りんかく》の柔《やわ》らかな瓜実《うりざね》顔《がお》をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇《くちびる》の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然《はっきり》云った。自分も確《たしか》にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗《のぞ》き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開《あ》けた。大きな潤《うるおい》のある眼で、長い睫《まつげ》に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸《ひとみ》の奥に、自分の姿が鮮《あざやか》に浮かんでいる。
 自分は透《す》き徹《とお》るほど深く見えるこの黒眼の色沢《つや》を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍《そば》へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうに※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みはっ》たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
 じゃ、私《わたし》の顔が見えるかいと一心《いっしん》に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋《う》めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片《かけ》を墓標《はかじるし》に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢《あ》いに来ますから」
 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯《うなず》いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍《そば》に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸《ひとみ》のなかに鮮《あざやか》に見えた自分の姿が、ぼうっと崩《くず》れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫《まつげ》の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑《なめら》かな縁《ふち》の鋭《する》どい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿《しめ》った土の匂《におい》もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の破片《かけ》の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間《ま》に、角《かど》が取れて滑《なめら》かになったんだろうと思った。抱《だ》き上《あ》げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
 自分は苔《こけ》の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石《はかいし》を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定《かんじょう》した。
 しばらくするとまた唐紅《からくれない》の天道《てんとう》がのそりと上《のぼ》って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔《こけ》の生《は》えた丸い石を眺めて、自分は女に欺《だま》されたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下から斜《はす》に自分の方へ向いて青い茎《くき》が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺《ゆら》ぐ茎《くき》の頂《いただき》に、心持首を傾《かたぶ》けていた細長い一輪の蕾《つぼみ》が、ふっくらと弁《はなびら》を開いた。真白な百合《ゆり》が鼻の先で骨に徹《こた》えるほど匂った。そこへ遥《はるか》の上から、ぽたりと露《つゆ》が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴《したた》る、白い花弁《はなびら》に接吻《せっぷん》した。自分が百合から顔を離す拍子《ひょうし》に思わず、遠い空を見たら、暁《あかつき》の星がたった一つ瞬《またた》いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

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